『さくらにかげつ』 感想
「さくらにかげつ」(ORANGE YELL)の感想です。
主にネタバレ有りで、「サクラにかげつ」について書いています。
- 「サクラにかげつ」
事故による死で時が止まったころぶと、ころぶの死から時が止まった耶澄が、
過去を認めて共に別々の道を歩き出す。ただの報われない終わり方ではなく、
その先を見出すものだと感じた素晴らしい終わり方だった。
自分はこの作品をプレイし終えた時”死”というものは覆せないものだと思った。
では、本作のころぶからサクラへと変容したことは”死”を覆しているのではないか、と思う人もいるだろう。だが、それはメタ的な言い方をするのならば、設定の根幹としてあり、無ければ物語が成立しないものでもある。
だから、自分の真に言いたいことは”死”から生まれた結果や事実、それ自体は一貫して容易に変えるべきではない、だと思う。
もちろん本作の”サクラにかげつ”が挿入された意味というものを考えるということであって、他の作品に先に説明した意識を適用するのはまたケースが違ってくるだろう。
そして、その観念はサクラの力のようなファンタジー的要素を作品内に取り込んでいるからこそ、その”魔法”のような万能の力を使えば「耶澄の元へポンコツ娘を集める」などの運命を改変することが可能であるが、死という事象についてプレイヤー側が持つ世界の概念的常識をどこまで超越できてしまうのだろうか、と考えてしまう。
この一線を守りきり、ころぶが納得した”幸せ”を二ヶ月という日常の先へと昇華させた、という点に物語的美しさを感じた。
その物語的美しさについては次から説明したいと思う。
2.「サクラところぶ」
このルートはサクラ(ころぶ)の視点で描かれている為、今までメインヒロイン達が過ごしてきた日常という場所にいたことから生まれる感情の遷移がしっかりと描写されていて、とても良かった。
やきもちのような嫉妬の気持ちから、自分も入れた5人で送る二ヶ月の日常を思い描いたり、耶澄と離れたからこそ分かる男女の距離感による恥ずかしさ、慣れすぎたころぶとしての日常をまた耶澄と過ごせる心地よさなど、本編内で語られなかった心情が、また”サクラにかげつ”としての厚みに拍車を掛けていた。
もう一つ、まだ生きていた時にころぶだから知ることができなかった、あくまでサクラという立場に徹しているころぶだからこそ知ることができた事実を知った点も終盤の物悲しさによる美しさの一因だと感じました。
3. 「散る桜 残る桜も 散る桜*1」
自分は死後その人のことを想うという永遠の愛の形も一種の不変性があって素晴らしいものだと思いますが、また好きだった人の死後を乗り越える過程があり、そこから生まれる日常の先というものにも良さを感じます。
「今更好きだったなんて、言えるわけないだろ」
「だから、俺は認めない」
「俺は特別お前が好きだったわけでもない」
「特別、嫌いだったわけでもない」
三ケ月 耶澄
本来死後の人に伝えられる手段なんてものはある訳がないからこそ「好きだった、と言えるわけ」もなく、あくまで想うのであり、成就しない永遠の想いでしかないのだ。例え「まだころぶが好きだ、ずっと愛してる、と言えた」としたら、この作品では、その先が存在せずころぶの死から時が止まってしまった耶澄は想いが変わらない訳で、この”サクラにかげつ”というルートとしての意味が無くなってしまう。
ただ、それを伝える手段があった本作だからこそ、「自分の気持ちを認めない」という言葉を贈ることが出来た。死を受け入れ、更に想いも形を変えて自分の中で昇華することにより、”にかげつ”の終わりを迎えるのは、切ないという気持ちが良い方向に転んだと思います。
「なぁ、ころぶ」
「俺は、お前とずっと一緒に居たかった……生きて、いたかったよ」
三ケ月 耶澄
そして、 死から生まれる結果を覆してしまうと”サクラにかげつ”としての美しさを損なってしまうから「"生きて"いたかった」ということが重要であり、それを伝えることこそが止まった時が動き出す一つの条件で、”想い”を伝え、それを認めないからこそ生まれる美しさだと思いました。
シーンを構成する上で一つ一つの主人公のセリフを取っても、この短い「サクラにかげつ」というルートを形作る上で欠かせないものであり、全てに”始まり”と”終わり”の美しさを描いていた。
4.「サクラと桜」
わたしは何も答えず、笑顔で手を振る。
そんなわたしに耶澄くんは何も言わず、そのまま去っていく。
さようなら、耶澄くん……
どうか……
どうか、幸せに……
夜九 ころぶ
3.項の最初で少し言及した永遠のような不変性に美しさを追求するのが西洋的姿勢ならば、日本人は移ろうものに美しさを感じる仏教的姿勢の「無常観」を根強く持っています。
その中でも最たるものとして挙げられるのが「桜」です。
「無常観」の中では「事実」と「思い」との間に食い違いを起こさない為に、変えようのない「事実」から、「思い」の方を換えて「事実」に合わせるしかありません。
日本人はその「無常観」の中に美しさを感じ、幽玄なものへの侘び寂びのような消えてなくなることも可とする感覚もあります。
そして「桜」は約2週間という短い期間の中で美しさを見せ、その終始に無常観を内包し、感じさせます。
ころぶは死に、その結果報われないという「事実」があり、サクラ(としての)にかげつを描いているから、そこは変わるべきではない(1.の項で用いた一線)
この「さくらにかげつ」という作品も「サクラにかげつ」があることにより、”にかげつ”という短い期間の中にころぶの死という「事実」から耶澄の「想い」を変えたから生まれた美しさなのかな、と思いました。
5.余談
何故、この感想を書いたかというと、某空間だったり他の感想を見る限り(自分の調べた限りで、まだ見ていない人の感想はあるかもしれませんが)、このルート自体の終わり方、よりかは寧ろ報われた終わり方をして欲しかったという感想や、「ポンコツ少女、同居育成ADV」というようにそちらを意識して、あまり”サクラにかげつ”自体に触れられていないものが多かったからです。
ただ、「報われて欲しい」という感想が悪いという訳でなく、”サクラにかげつ”が挿入された意味を考えるなら(そもそも何も意味がないのなら挿入しないだろうという予測の元)この”サクラにかげつ”という終わり方(あくまで自分の主観)を無視して、「ちょっとこの終わり方は無いな」となるのはちょっと違うのではないかな、と思いました。
なので、改めてこの感想を見て「でも、自分はハッピーエンドが好きだ」となれば、それはそれで良いですし、「この感想は間違っている」と言われれば、それはそれなりの理由があれば納得します。ですが、もし自分と同じく「”サクラにかげつ”が挿入され、更に物語が引き立ち、最後に美しく完成した」と思う方もいるといいなぁ、以上です。
「どうして、わたしが耶澄くんの隣に居ないんだろ」
「もしも、わたしが生きている未来があったとしたら……」
「……なんて、ね」
「さーて、帰ろっか。今の……わたしの居場所へ」
「今日の夕飯、何かな……」
夜九 ころぶ
*1:どんなに美しく綺麗に咲いている桜でもいつかは必ず散ることを唄った句