ぼそぼそ

書きたくなったら書きます

プレイ本数が1000本を超えました(日記)

めっきりと暑くなって、外もすっかり夏の様相を呈して参りました。

こんな季節ですと、普段はそこまで気にしないタバコの煙でもまとわり付く汗と混ざり合い、少々煩わしく感じてしまいます。

実は自分、喫煙者です。そんなタバコですが、タバコを吸わない人から見れば百害あって一利なしみたいな印象を受けると思います。実際ぼーっとしながら吸っていると、自分でもふと「何故決して安くないお金を払って吸っているんだろう」なんてことを考えたりもします。

喫煙というものに理解を示さない人から「その消費してきたお金で何ができる」「心地よい虚脱感があるかもしれないけど、わざわざ早死する為に、有害な物を体に含んで何になるの?」など、様々な有難い意見を頂戴することもしばしばあります。

実際に体験した経験からでた評価なのか、世間からの評価なのかは分かりませんが、その中でも「無価値」と言われたことを思い出しました。

 

自分は今、タバコに価値を与えるとしたら「あると安心するもの」と捉えているのですが、もちろん吸う前には「体に悪そう」なんて見方もありました。

ただ、周りから見た大衆的な価値というのは、やはり上記したような価値があると思うんですよね。それは一般的にはマイナスのイメージであり、その価値観を持つのは当人の自由だと思います。ここで”当人の自由”と表現した通り、事物に価値を与えるのは自分自身ということです。最初に思い出した「無価値」という言葉も、その当人が「無価値」という「価値」を与えたもので、「マイナスのイメージ」というのも大衆という個人を指したような、その社会が与えた価値です。

 

そして「無価値」と一口に言っても、何か理由があって「無価値」と与えたのでしょう。最初は「体に悪そう」なんて思ってたのに「あると安心するもの」といったように、価値というものにも他者から発生したかもしれない価値から自分の中で決めた価値としての変遷があり、そう考えると一番最初には何も評価してない場所から始まる訳ですから、もちろん言葉通り「無価値(知覚すらしていない、最初に登場した無価値とは中身が違う)」なのです。つまり”無価値”から”無価値”に変わったということで、そこには理由があって”無価値”と表現されど、価値が自分の中で存在するということです。

 

まぁ、何故タバコを例にして”価値”について説明してきたかといいますと、最近えっちなげーむをやっていて、自分がよく点数等を入力している某サイトがあるのですが、そこで自分の好きな作品に「やる価値がない、人におすすめできない」というようなニュアンスで評されている感想がありまして、「無価値を強制する」ような書き方というのは、価値を与える機会を奪っているものだなぁ、と感じたからです。

 

自分はそういう考え方があまり好きでなく、先ほど説明した”無価値”または”他の価値”から”無価値”への変遷というものを良しとする側面があります。何事も経験というわけではありませんが、自分の手を出せる範囲で手を出すことは、結果的にマイナスだったとしても人間的には根源の欲求を満たしている気がします。

 

実際にタバコを世間のイメージから”価値”を与えて「体に悪そう」(実際に体に悪いから間違っていない)と評するように、面白くないのかもしれないが、その作品自体を他の人の感想から自分の中で「やる価値がない」と実際に触れずにそのまま”他者の価値”を与えてしまうのは人間的に寂しいことだなぁ、と思いました。

(逆に時間の無駄だと言われるので、あくまで自分の考えであり、もちろん強制するつもりはありません)

もしかするとタバコも中毒性を無視して一回体験してみれば意外とハマるかもしれませんし、えっちなげーむでも何かマイナス・プラスに限らず光る部分を感じるかもしれません、その機会を逃しているのは単純にもったいないと感じてしまいます。

 

そして、最近プレイ本数が商業・同人・フリーを含め1000本を超えました。

改めて自分はプレイスタイル的にも時間は有限だけど、やりたいものがあればどんどん触っていく姿勢なので、最近ではそこから発生した考えなのかな、なんてことも思ったりもしました。

 

だから、今日も僕は”無価値”かもしれないけど、これからもタバコをもくもくと吸いながら色々なえっちげーむをやっていきます。おしまい。